経営危機そして退職
第6稿です。
1990年代後半のプラント業界は過当競争の時代でした。 外国、特に韓国の会社が急速に力をつけてきて価格競争力を武器に私のいた会社と受注合戦をしていました。 受注産業でしたから常に仕事を取らないといけません。低価格でも受注せざるを得ない場面もあったと思います。
入社してしばらくしてすぐに赤字に転落、その後はずっと赤字でした。
80年代から多くの大規模プロジェクトを成功させ、社員の中でも多くの成功体験があったと思います。 当時は格下と見ていた諸外国の同業他社がまさか自分たちを脅かす存在になるとは殆どの社員は思っていなかったと想像します。
それまでの競争優位が、競合の台頭という外部環境の変化に会社が適応できず(せず?)、競争力を維持できなくて結果として業績が悪化したということだと思います。
良くない業績が続いたことで、社内の雰囲気が急速に悪くなっていったことは20数年経過したいまも強烈な印象として脳裏に残っています。まさに「貧すれば鈍する」を実感していました。
2度目の中東赴任をしているときに赤字が過去最大となり、会社は大幅なリストラをすることに決めました。 そのパッケージの一つが入社3年目以上を対象とした希望退職募集。中高年以上の希望退職はよくありますが、入社3年目以上というのはそう多くはないのでは、と思います。(ちなみにこの大規模リストラのあと大きくこの会社は大きく甦りました。OBとしては嬉しい限りです)
仕事中毒の人間の集まるこの会社はとても好きでしたが、給与や賞与カットが続いて将来への漠然とした不安もあったし、まだ30歳になったばかりでいろんな可能性もあるかもな、ということも思って退職することを考え始めました。
たまたま自分の地元の電機会社で大きな液晶工場を建てる話があり、人を募集し始めたことから、大学進学で地元を出てからというもの、何も地元に貢献していないことを反省する気持ちが芽生え、これを機に応募してみることを決意しました。
退職が先だったか採用決定が先だったかははっきり覚えていません。
中東に赴任中に、建設現場トップとの1対1面談がありました。 社員一人一人の退職の意思の有無を確認する目的で実施されたもので、その席で退職することを伝え、残務を整理して帰任しました。
いままでお世話になった方々には戦列を離脱することについては申し訳ないという思いも多々ありました。 でも退職の挨拶に回った際は、皆さん快く送り出して下さったことは本当にありがたかったです。
それにしても好きな会社をこうやって去るときが来るとはまさか思ってもみませんでした。
こうして地元に戻ることになりました。
次回からはそこでの話を綴りたいと思います。