四十で惑わず、五十にして天命を知る

~海外在住 中小企業診断士&FP1級技能士MASAのブログ~

新規ビジネス開拓①

第176稿です。

とにかく新任地に着任しました。

そこでの自分の役割は新規ビジネス開拓といった漠然としたもの。

今度どこかでお話ししたいと思うのですが、ある時点から組織の中で第一級の期待を背負っているという感覚はなかったですし、明示的にこういう風にしてほしいような組織からの要請もなかったので、良くも悪くも自分の中では宙ぶらりんな感じでした。

何の制約条件もないと人間は不安になるというものらしいですが、まさにそういう状態だったのだと思います。それはある意味、自分が何かの制約がないと生きられなくなっていた、ということなのかもしれません。

とにかく自分の拠り所にすべき軸が全くないので、誰と何の会話をして何を作り上げていいのか全くわからない。会社もここに自分を送って一体何を期待しているのだろう、ひょっとして左遷か?何か悪いことしたっけ?などとくだらないことをなかば本気で考えてしばらくは悶々としていました

ちょうどコロナの真っ只中で引継ぎらしい引継ぎもできず、また新任地は小さい所帯でしたし、特に相談できる人も周りにいませんでした。

というよりも、何を相談したらいいのかもわからない、といった状態だったと言うのが正しいですね。

なぜならば自分の行きたい方向が定まっていなかったので。

とにかく手探りで自分の居場所を作ることを始めるしかありませんでした。

その地場でどういう需要があって、何がビジネスになりそうか、なんてことは、一人で街を歩いていても(そもそもコロナ禍で街もそんなおいそれとは歩き回れませんでした)、インターネットを眺めていても、全く何のアイデアも出てこない

いままでは、どこかに移動すると、そこにいた人に背景情報を教えてもらっていました。つまり、新任地での必要な情報を事前に与えられることに慣れていたため、完全に待ちの姿勢になっていたのでした。

つまり、自分で何かを探索する、ということに慣れていなかったのだと気づきました。

今までは先人たちが作ったレールに沿って過去のビジネスを取り扱っていたので、そのレールを歩むことに慣れてしまっていたんですね。

これからはこの場所で新規ビジネスをとにかく何かやらなくてはいけない。

つまり道のないところに道を作るようなものだ、という考えに至りました。

地場のことを知るには、わからないなりに地場のメディアに接するしかない、と思い直し、地元の新聞を買い求めることにしました。

そして、朝起きると一定時間をかけて隅々まで新聞を読むことを自分に課すようにしました。

また、クルマに乗るたびにカーラジオで地元のニュースも聞くようにしました。

最初は地名が出てきても全く土地勘もなく何のことかわかりません。

近くの書店に行って地域全体のマップを買い求め、地名らしき固有名詞を聞くたびにマップを開いて、少しずつ地元の情報を入れていくようにしました。

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国際間転勤⑥

前回は旧任地を出立した話でした。

qye04202.hatenablog.com

日本にいる家族にもコロナのおかげで会うこともままならず、そのまま日本を出立して一人で新任地に旅立ったときには、いいようもないわびしさを感じたのを強烈に憶えています。

組織に属していて組織の命で旅立ったので、誰かは自分が新任地に向かっているのは認識していたはずではありましたが、このまま自分の気が変わって行かないことにしたらどうなるんだろう、というおかしなことが頭に浮かんだりもしました。

国際間移動ということで組織内でも異例なことだったことで全てを一人で準備する必要があった上に、コロナで極力人との接点を持てなかったため、一層孤独を感じたのだと思います。

新任地に到着したのは夜中でした。

ドラマチックに異国に来た、という感覚は全くなかったですが、何となく寂しさを引きずって来ていたので、そんなに明るい気持ではありませんでした。

いま思うと軽い鬱状態だったのかもしれません。私は医学的な知識を全く持ち合わせていないので、独りよがりな判断でしかありませんが。

経由地で入国を済ませていたのですが、入国の手続きは拍子抜けするくらいあっという間で何のドラマもありませんでした。

目的地に到着したのは夜中でした。確か午前0時前ではなかったかと思います。

空港でタクシーに乗り、予約していた宿泊場所に向かいました。新任地での住居はまだ設定していませんでしたので、しばらくは仮の宿としてAir bnbのレンタルスペースを予約していました。

到着したのは午前1時くらい。

国際間転勤でしたので、大きな荷物を抱えていました。

タクシーのドライバーに手伝って貰ってこの荷物を降ろし、降り立ったのはアパートのようないでたちの建物でした。

共同玄関にはキーロックがありました。

入り口の階段の下にキーロックが置いてあり、暗証番号を入れるスタイルのキーでした。

事前に聞いていた番号を入力するも、玄関の施錠は全く開く様子もなく、何度やっても結果は同じでした。

携帯電話は国を移動しているため全く使えずネットに繋がっていないため大家に連絡することもできず。

向かいに24時間営業していた店があったのでそこで急遽間に合わせのSIMカードを買うもうまく設定できず。。。

無駄に時間を費やすこと約2時間。

結局予定していた宿泊場所には入ることができず、店の店主にタクシーを呼んでもらいダウンタウンに移動、そこでホテルに転がり込んだのが午前4時

波乱万丈の新任地赴任でした。

あとで聞いてみたら、キーロックは、暗証番号を押して玄関の錠前が開く仕組みではなく、暗証番号を押すとキーボックスが開き、そこにキーが入っているしくみだったということ。

全く気づきませんでした。

こうして最初の夜明けを迎えました。

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国際間転勤⑤

やりたいこと、やらなければいけない(と自分で思い込んでいること)がたくさんあることを自分の中で言い訳にして9か月くらい更新できていませんでした。

でも実際のところは、何かを語るために頭を整理する余裕がなかったものでした。

そろそろ少しずつ再開しようと思っています。

前回までは国際間転勤の話をしていました。

qye04202.hatenablog.com

前任地を離れて、いったん日本に戻りました。

当時はコロナの真っ只中。

日本に入国するためには出発国でコロナウィルス検査を受診し、陰性証明書を取る必要がありました。

そして日本入国に際しても係員の誘導を受けてコロナウィルス検査。

経験された方も多くおられるかもしれませんが、選挙のときの個人ブースのようなところで唾液を採取するというもの。

目の前には唾液を出しやすくするためにレモンの絵が掲げてありました。

結果が出るまでは30分程度待ったでしょうか。

陰性の確認が出た後(実はどちらが前後だったかはっきりと覚えていません)、係員の誘導に従って厚生労働省の指定する追跡アプリをスマートフォンにインストールし、その後入国、といった流れだったように思います。

入国後は、当時公共交通機関の利用が禁止されていましたので(といっても誰がチェックしている訳でもなく自主管理でした)、家族に空港まで来てもらいました。

当時は海外から帰国する人に対して感染源のように思われないかという懸念がありましたので、学校に通っている子供たちに影響があるかもしれないことを恐れて自宅には戻らず、そのままホテルに直行。

自宅そばのホテルでしたが空港からはクルマで1時間半くらい。

日本に立ち寄ったのは、次の任地に向かうための簡単な準備をするためでしたので、空港からクルマで1時間半くらい離れた自宅そばのホテルを予約し、必要な荷物を家族に持ってきてもらう、という形にしていました。

そしてホテルに2泊ほどした上で、また国際空港に向かい、次の任地である北米に向かいました。

当時次の任地に入国するためにもコロナウィルス陰性証明書が必要でしたので(確か搭乗の72時間前以降に受診だったよウニ思います)、空港で受診し、数時間後に結果を貰って搭乗手続きに臨みました。

いまようやく世界は正常化しましたが、当時は異常な状態でした。

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国際間転勤④

第173稿です。

前回は離任に際してコロナの状況が急激に悪化し送別会などがいっさいなくなってしまったことをお話ししました。

qye04202.hatenablog.com

コロナの影響、そして国際間移動の苦難、はこれだけにはとどまりませんでした。

転勤にあたり、住居に置いている荷物もすべて引き払って新しい場所に運ぶ必要がありました。

引越業者に来てもらい、見積もりをして貰ったうえで会社で予算を取って引越しをする段取りを進めていました。

(社命による移動なので一定程度は会社負担で搬出できました)

コロナ下で特にアジアの物流が混乱しており、業者からは、空輸にしたほうがいい、海上輸送ではいったいいつ届くかわからない、と言われていました。

そのため、大部分を空輸することとし、航空便で運べない液体物やバッテリーなどごく一部の貨物を海上輸送することにしました。

引越業者が自宅に来て、梱包も含めた準備をしてくれて、ほぼ丸1日かけて搬出を終えました。

搬出したのはビザを取得できた直後の8月中旬でした。

通常は航空便で2週間弱、海上輸送で約3か月が相場でしたから、海運を選んだ一部の貨物を除き、少なくとも自分が北米に到着する8月下旬の少し後くらいには大部分の貨物を受領できるだろうと考えていました。

ところが蓋を開けてみると、海運だけでなく、空輸もコンテナが長蛇の順番待ち状態、私が北米に到着していた9月の時点でも東南アジアを出発する便が確定できず、引越業者に何度確認してみても「わからない」の繰り返し。

そうこうしているうちに、物流の逼迫で空輸運賃が大幅に跳ね上がり、予算上の制約から空輸を予定していた貨物の多くを海上輸送に切り替えて、費用を抑える手配をせざるを得なくなりました。

結局現地から貨物が空輸できたのは自宅からの搬出後約2か月経過した10月。

その上、現地業者は、私に対して1,000km離れた港湾まで輸入通関手続のために出向け、という無茶なことを言い出して閉口しました。(業者曰く、輸入通関は本人が出向く必要がある、とのこと)

結局現地の業者に交渉し代理通関を頼みました。

実際には現地の日系業者から委託を受けていた現地会社が、この日系会社が代理通関をできる(たぶん特別な許可を持っているということだと思います)ことを知らなかった、ということだったのだろうと思います。

空輸の貨物は10月末には受け取ることができましたが、コロナの混乱と国際間のありがちな連携の欠如(搬出業者と搬入業者は異なる)によって右往左往させられた引越劇でした。

結局、海上輸送をした残りの貨物は搬出してから約半年後、搬出したこともほぼ忘れかけていた頃にようやく到着しました。

一部の物品の損傷や紛失のおまけつきで。

結局この国際間移動にかかった費用は当初の見積もりのほぼ2.5倍にまで膨れ上がっていました。

会社の中で予算枠の再交渉に一定の労力を費やしたことは言うまでもありません。

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国際間転勤③

第172稿です。

前回は新任国のビザがようやく取れたお話をしました。

qye04202.hatenablog.com

東南アジアには約3年半いました。

それなりに長くいたので、社内外の人にはいろいろとお世話になりました。

ビザ取得の手続きを開始した頃、滞在国のコロナの状況は長らく沈静化していました。

コロナ初期は飲食店などの施設は一切営業を停止していましたが、その後の状況が安定していたため、ある時期から営業を再開しており、一定の制限はあったものの、人が集まることも可能になっていました。

そのため、勤務先では、複数の部署の人たちがいろんな送別会を計画してくれていました。

イスラムの国でしたので、アルコールを交えてのコミュニケーションはなく、送別会といっても文字通りただの食事会であっさりと終わる質素なものなのですが、それでも、仕事を離れて職場のいろんな人たちと交流できるのを楽しみにしていました。

勤務先は工場でしたが、工場を挙げての送別会も計画してくれていたようで、いろんな部署のいろんな立場の人たちと離任前にいろいろと会話できるのを楽しみにしていました。

その送別会は、市中のホテルなどの一角を借り切って行うという大々的なもので、そのイベントの中には、労いの意味を込めた贈答品も頂けるという計画も含まれていました。

事前に人事部門の人に何がほしいかを聞かれて、既に手配もして貰っていました。

また、勤務先の中だけでなく、日本他社の駐在員の方からも、送別会をして頂けるというありがたいお申し出をいただき、お宅にお邪魔するなどの機会も計画していただいていました。

さらには、送別ゴルフとして普段行った事のないゴルフ場にも案内頂く手はずになっていました。

ビザはようやく8月初頭に取得できましたので、これで落ち着いて多くの皆さんと送別会の席などで話ができる、と思っていました。

ある日の金曜日に初回の送別夕食会を市内のイタリアンレストランでなごやかに実施しました。

ところが、忘れもしないその翌日の土曜日、国内で1年ぶりの市中感染発覚が報道されました。

これで状況は一変

即日で政府が緊急処置を発表。

国内の飲食店、スポーツ関連など人の集まる施設の営業は全面停止となりました。

その後、日を追うごとに国内の市中感染者は増え続け、状況は日に日に悪化していきました。

いろんな方々に計画して頂いて大小さまざまな送別会はすべてキャンセル、当然に送別ゴルフも実施できず、楽しみにしていた皆さんとの交流も結局行うことができませんでした。

会社が準備してくれていた送別の品(ゴルフバッグでした)は、ある日の夕方に人事部門の部屋に行って受け取り、誰にも手渡しして頂くセレモニーを経ぬまま、そっと自宅に持ち帰りました。

何ともあっけない幕切れ

この寂しさはこれからもずっと心に残り続けるのだと思います。

次回もこの話を続けます。

Photo by Anna Shvets on Pexels.com

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国際間転勤②

第171稿です。

前回は東南アジアに赴任しているときに北米への転勤の命令があったことをお伝えしました。

(前回の記事はこちら)

qye04202.hatenablog.com

日本のパスポートは世界最強と聞いています。

世界中の国の中で、ビザ(入国査証)なしで行ける国の数がもっとも多いということだそうです。

でもそれは観光で訪問するときに限ったこと。

仕事をするとなればいくら最強のパスポートを持っていてもビザを取得する必要があります。

普通ならば、必要な書類さえ揃えておけば、到着時にビザが貰えるという極めてシンプルな手順だそうです。

ところがちょうどその頃は世界中でコロナが猛威をふるっていた頃。

各国が入国のハードルを上げていました。

赴任国に到着する前にすべての手続を済ませておくよう手順が変更されていました。

ビザ取得のためには、まずは書類の準備が必要です。

パスポートのコピーや写真のほか、取り寄せが必要な最終学歴を示す書類(卒業証明書)など。

この取り寄せだけで2週間くらい。

その上で、指定の健康診断を受けたり、無犯罪証明をとるなどの在留国での手続が必要で、これにも数日間。

新任地到着時にビザ発給というしくみはコロナでいったん休止されていましたので、事前に指紋登録も済ませる必要がありました。ところが指紋登録の装置は在留国の在外公館にはなく、そのために、指紋登録がなくても特例として入国を許可してもらうように要請する追加の手続が必要でした。

いちばん簡単なのは、この指紋登録装置のある日本にいったん帰国した上で、在日の在外公館に立ち寄って指紋登録を行い(赴任国のシステムに指紋を登録するだけです)渡航するという15分くらいで終わるシンプルな手続きでした。

ところが、当時の日本は帰国時に14日間の隔離を求めていました。

これは外国人のみならず日本人も対象でした。

したがって、この手を使うと隔離明けからしか手続ができず、そこから渡航となると新任地への着任が遅れてしまいます。

結局一時帰国での指紋登録は断念、新任国に指紋無しの入国ができる手続を追加で行うことにしてもらいました。

そのこともあってビザを申請しても待てど暮らせどビザ発給の連絡は来ず

新任地側からはまだかまだかと矢のような督促が来るし、自分ではコントロールできることではないし、ビザが出るまでの間は気持ちの休まるときがなかったように記憶しています。

結果的には異動の連絡を受けてからビザが発給されるまでに3か月半くらいかかってしまいました。

あとでわかったことですが、コロナ感染拡大で旅行が世界中で制限されたせいで入国管理の役所も大きく人を減らしており、その上に在宅勤務が中心になったりしたことで役所に必要なリソースがなく、事務手続が全般的に大幅に遅れていた、という事情もあるようです。

それにしてもなぜ自分ばかり壁ばかりぶち当たっているんだ!と若干恨めしい想いを持ったりした時期もありました。

次回以降もしばらくこの話を続けます。

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国際間転勤①

2023年からブログを再開することにしました。

このブログを始めてから本稿で170稿目だと思います。

しばらくは近況についてお話ししていこうと思います。

東南アジアで勤務して約3年半経った1年前のある日。

北米への転勤が伝えられました。

東南アジアでは管理系の仕事が中心でしたが、北米での仕事は営業。

実は過去に営業を外れて長く、しかもそれは営業不適格と思われて外れたと思っていたし、自分も営業に適格だとは全く思ってなかったので、自分の中ではかなり意外でした。

同時に営業を担当することにかなり恐れを抱いたのも事実でした。

(営業から外れた頃の話は以下に記しています)

qye04202.hatenablog.com

でも考えてみれば、自分の考えでは考え付かないような人事が降ってきて新しいチャレンジができるのはサラリーマンの特権かもしれません。。

すでに1年以上前に一緒に住んでいた息子も日本に帰していて(過去の投稿をご参照下さい)当時は単身赴任をしていましたが、この先見知らぬ地で、自分が(勝手に)不適格と思っていた営業をさらに単身赴任で続けていく自信は正直言ってありませんでした。

どのタイミングで赴任するか、家族には来てもらうのか、コロナ禍の中でビザがすんなり取得できるのか、などなど確認しなくてはいけないことが怒涛のように頭の中を駆け巡り、いきなり降ってきた人事にあたふたし、慌ただしい日々が始まりました。

次回はこのことについてお話ししたいと思います。

Photo by Andrea Piacquadio on Pexels.com

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