過去編のエピローグ
第160稿です。
2週間ぶりの更新です。
2020年6月から過去の経験や思いを振り返ってきましたが、一旦ここで一区切りとしたいと思います。
自分の半生は、思えば失敗が殆どだったという記憶しかありません。
でも失敗のたびに何かを得ようとしていたような気もしますし、そういう風に思い込みたいという気持ちもあります。
何度も自分のことが嫌になったりもしたけれども、問題に直面しては自分で対処せざるを得ず、逃げないで、というよりも逃げられずに何とか今までやってきたのだと思います。
そういうものの積み重ねが、多少でも生きる知恵として、読者の皆様にお伝えできればいいなと思っていました。
その目的はまだ半ば、まだお伝えしきれていないことも多々あるのではないかとは思っています。
ただ、少し何がお伝えできるのかを自分の中で整理しておきたいという思いもあり、一旦はここで区切りとしたいと思っています。
次の幕開けは、過去編の第2弾にするかもしれませんし、もっと将来に目が向いたものにするかもしれません。
新年度の始まる4月くらいには再開したいと思っています。
もともと、このブログを始めたのは、自分のいろんな苦い経験が、これから同じように悩み多き人生を歩もうとする、きっと自分よりも若い人たちの参考になればいいな、と思ったことがきっかけです。
お蔭さまでそれなりの反響をいただき、悩んでいるのは自分だけではなかった、と非常に心強く感じました。
でも実はよく考えてみると、自分の多くの失敗談や、数少ない成功体験を、充分に理解してほしい、同じ轍を踏まないでほしい、と自分が心の底から願っているのは、ほかならぬ自分の息子に対してなのではないか、と思えてきました。
ふとそう思い始め、あるときから確信に変わりました。
親である私の苦い経験、特に、自分が手を抜いて自分にしっぺ返しが来る経験、少しの努力をしておけば避けられた数々の苦労、こういうものは息子には経験してほしくないと思っています。
彼には私のブログの一字一句、その語彙の選択やその背景の意味に至るまで、充分に内容を咀嚼して理解してほしいと心の底から願っています。
いまどきの若者はいろいろと大忙しで親のブログをのんびりと鑑賞している暇はないことでしょう。
それでも、自分の親が悩み、生きてきた道筋をいつかはふと振り返る時間をとってほしいと思っています。
それが彼のためにもなるかもしれないと思うからです。
息子よ、努力していい人生を送ってくれ。
読者の皆様、最後は親バカで締めくくってしまい申し訳ありません。
いままで継続して読んでいただきありがとうございました。
それまで読者の皆様、お元気でお過ごしください。
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過去編のエピローグに向けて
第159稿です。
これまでブログで過去を振り返ってきました。
(これまで読んでいただきありがとうございました)
もともとは自分の苦い経験が誰かのお役に立てれば、という思いで始めたものですが、思わぬ反響をいただき、多少はお役に立てたのかもしれないと嬉しく思います。
お蔭さまで自分が何に価値を置いてきたのか、何をやろうとしてきたのか、ということについて棚卸しする機会にもなりました。
これまでの150稿あまりを通じて、思い出せる限りの失敗、苦い経験を振り返ってきました。
ここでは言及できなかった、すでに自分の中ではるか記憶の彼方にある失敗も数多くあると思います。
そしてその失敗のゆえに、自信が持てなかった時期もありました。
その時期には、自己肯定感を持てなかった、ということだと思います。
いまでも別に何の自信もあるわけではありませんが、少なくとも前よりは、自分や自分の環境を受け容れることができるようになっているものと思います。
少し前に、ある著名な書道家の方に、中小企業診断士としてZOOM取材させて頂く機会がありました。
その方は、自信なんていらない、むしろ自分に自信があると型にはまった思考になるような気がする、むしろ自信がないことで、自由な発想でいろんな新しいことにチャレンジできる、その結果、100のアイデアを創作して世に試すことができる、試した結果、批判を受けることもあるかもしれないが、1つくらいは誰かの琴線に触れることもあるはず、というようなことをおっしゃっていました。
なるほど、そういう考え方もあるのか、と納得しました。
よく考えてみれば、森羅万象に比べたら自分の存在はあまりにも小さい、そんな自分が自信を持ったところでそれは何の役にも立たないのではないか、という気にもなってきます。
過去というのは既に終わったものですものね。実はとてもちっぽけなものなのかもしれません。
先日読んだ本に、自分未来は過去に引きずられてしまう、と多くの人は考えているが、これは誤りである、未来を創る勇気がないからそういう考えに至るのである、といったようなことが書かれていました。
一言一句正確に憶えているわけではないですし、自分が理解違いをしている可能性もあり、その思考に至る心理学上の理由はあまり理解できていないのですが、少なくとも自分の過去と未来は別物である、という考え方は非常に新鮮、かつ勇気づけられました。
この考え方に基づくと、自分はいろんな失敗をしてきたけれども、未来を創るうえでは過去は全く関係ない、ということになります。
希望の持てる言葉として胸にしまっておこうと思います。
次回でこのブログでの過去を振り返るセッションは終わろうと思います。
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失敗の経験~印象深い出来事⑥~自分ごととして
第158稿です。
目先で片付けなくてはいけないことが多々できてしまい、前回の投稿から2週間程度空いてしまいました。
前回は新製品の失注に関して反省会をしたときの話をしました。
今回は別の失敗談を。
あるとき製造上の大きなトラブルで出荷が遅れそうになったことがありました。
それを知り得たときに上司の課長に相談しました。
今となってはどういうトラブルだったのかも全く記憶していませんし、その品種は自分の担当ではなかったので、何で相談したのかは全く憶えていません。
課長曰く、すぐに事業のトップに報告しろ、と。
その言葉を受けてそばを通りがかったトップに「○○製品でトラブルあり出荷が遅れるようです」と声を掛けました。
そうするとトップはムッとした表情で、「いまその製品はどういう状態にあるのか。製造工程でどこにあるのか。」
矢継ぎ早に質問を投げかけました。
問題があるということしか聞いておらず何も答えられなかった自分にあきれるような顔をしてトップは去っていきました。
以前にお話しした新製品開発会議の一件もあって、少しそのトップに苦手意識を持ち始めていた頃でしたので、自分に自信がないこともあいまって、おそらくしどろもどろでの報告になっていたこともあると思います。
結局自分のやっていたことは、ただのメッセンジャーでしかなく、情報に何の付加価値も与えられていませんでした。
それがどういう状況で起こったのか、なぜそうなっているのか、何がわかっていて何がわかっていなくていま現場ではどういう対応をしようとしているのか、といったことを分析するだけの頭が全くなく、トップの求める答えとは到底及ばない回答をしていたのです。
当時は、その製品は担当じゃないしわからなくても仕方ないだろ、と内心思う気持ちもありましたが、たぶんその考えは間違いで、事業を預かる相手の立場になればできるだけの情報収集はしておくべきだった、と後になってみれば思います。
目の前にある仕事にきちんと自分のこととして対処する、ということだと思うのですが、そのときの自分の精神状態や業務負荷の状況によって余裕が持てないこともあり、担当外の案件をどこまでその事象に責任もって対処するか、というのは少し難しい判断だったのかもしれません。
でもきちんと組織や人の役に立つ働きをしようと思うのであれば、そういうこともしっかりやり切らなければいけないのかもしれません。
結局、そのトップは現場のただ事ならぬ雰囲気を感じてすぐに幹部社員を集めて事態把握に努めていましたので、生煮えのふがいない自分の報告であっても多少役に立てたのかもしれない、とも思いましたが、現場の異変を即座に察知して行動に移す姿は非常に印象に残っています。
すでにその方は鬼籍に入られてしまいましたが、自分の考え方、行動様式に影響を与えてくれた方の一人です。
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失敗の経験~印象深い出来事⑤~反省会
第157稿です。
前回は新製品開発企画の話をしました。
さて、曲がりなりにもその新製品開発を前に進めることができました。
きちんと性能を満たせば、ある大手メーカーさんが発売を予定していた新商品に搭載される基幹部品として採用される予定でした。
その大手メーカーさんが最終需要家で、生産は東アジアの協力会社で行うスキームでした。
まずは最終需要家の評価をクリアし、その上で、生産委託先での量産チェックを経る必要がありました。
最終需要家の評価は最初の関門だったのです。
技術部が試作品を何度か作り、その大手メーカーに納品し、いろんな評価をしてもらっていました。
当時ある商社を経由して商談を進めていたので、その商社の担当者と幾度となく通ったように思います。
結論から言うと、最終需要家の求める性能が出せず、最初の関門をクリアできず、残念ながら採用には至りませんでした。
そのことを知ったとき、心底残念な思いでした。
と同時に、とても変な話なのですが、自分が心から残念と思ったことに嬉しく感じる気持ちも湧き上がってきました。
人から言われて新製品開発企画書を起こしたものの、自分ごととして捉えられず、決裁者から商品について何も答えられなかった自分が、残念に思うくらい思い入れを持つようになっていたんだな、と再発見したからです。
その思い入れがあったからか、この失敗の知見は残さないといけない、と感じました。
社内の各部を巻き込んで開発、試作を進めたものだったので、「失注反省会」を社内で開催することにしました。
すぐに生産管理、製造、資材、開発、など多くの部署の責任者の皆さんに会議室に集まってもらい、なぜ失注したのか振り返り始めました。
その中である部署の責任者に言われたこと。
「反省、反省と言うが、何を反省するのか。我々は言われた通りに準備をしてそれをこなしてきた。反省せよと言われても困る」
おそらく理屈で言えばその通りです。でもたぶんこういうことを言われてしまうのは、社内一丸になって取り組むための各部との信頼関係を構築できていなかったな、といたく反省しました。
また、「この反省内容はのちに僕のほうで纏めておこうと思います」と出席者に約束したのですが、結局自分の中でうまく纏めることができず、世に出ずじまいでした。
時が経ちみんなそんな約束したことも忘れていただろう頃(自分自身も忘れていました)に、あるとき別の部署の責任者に言われました。
「君、あのとき反省内容を纏めると言ったよな、それまだいまだに出ていないよな」
結局自分でコミットしたことも成しえなかったのです。
おそらくその人からするとあいつは信用できない、という評価になったことだろうと思います。
このことはその後の自分の重しとなっています。
有言実行、言った以上はきちんと最後まで責任をとってやる、この一件以降、ずっと心がけようと思っていることの一つです。
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失敗の経験~印象深い出来事④~新製品企画
第156稿です。
前回は学生時代のアルバイトでの失敗をお話ししました。
今回は会社での話です。
新製品を出すことになったときのことです。
当時私は営業部門にいました。
新製品を出すときには、新製品開発会議という打合せを実施する必要がありました。
すでに開発部の方針で開発の方向性は決まっていたのですが、製品化のためには生産管理部、製造部、資材部など社内各部署にも動いてもらう必要がありました。
この製品に取り組むことを社内周知し、各部に取ってもらうアクションを明確化するためにも、この会議を開催する必要があったのです。
そしてそれに先だって新製品開発企画書という書類を準備しておく必要がありました。
これは、新製品の概要を記した書式で、会社の上層部の決裁を取る必要がありました。
当時この製品群の営業担当だった私は、開発部の責任者から、「試作品を顧客に提供するからすぐに新製品企画会議を開催してくれ」と言われていました。新製品企画会議の主催者は営業部門だったのです。
急場しのぎで販売想定価格、市場価格、仕様情報などを書式に埋めて決裁者の印を貰いに行きました。
開発責任者は常日頃から決裁者と打合せを持っているのを遠目から見ていましたので、内容がどういうものであれ、難なく決裁されるものだと思っていましたし、そもそもこの書類は新製品企画会議を実施するのに形式的に必要なものなのだろう、という程度の認識しか持っていませんでした。
決裁者の部屋に行ったときの会話。
決裁者「(作成した新製品企画書を見ながら)これは市場性あるの?当社にどういうメリットがあるの?」
自分「・・・」
決裁者「採算ラインは?」
自分「・・・」
企業の経営者なら当然聞くであろう質問に全く何一つ答えられませんでした。
気を取り直してようやく絞り出した言葉が、
「それでも製品企画会議を〇月×日に予定していまして、その際にこの書類が必要となるんです。」
決裁者には渋い顔をされてこう一喝されました。
「君なあ、企画書ちゅうもんは会議やるためにあるとは違うんやで。」
当たり前のことです。
いまから考えたら何でこんなことを言ったのかわかりません。
たぶん頭の中が空っぽでその製品のことなんて考えていなかったのだと思います。
まったく頓珍漢(とんちんかん)なことを言っていたと我ながら思います。
結局人から言われるがままの仕事をしておらず、この新製品に思い入れも、また自分なりのビジョンも持てていなかったし持とうともしていなかったのが原因でした。
そんな仕事をしているようでは自分がその場に存在している意味がありません。
決裁者にはすでに話は通っていたみたいで企画書には印鑑は貰えましたが、きっと、「こいつ使えないな」、という印象を与えたことでしょう。
今から考えても顔から火が出るくらい恥ずかしい場面でした。
それからというもの、できるだけ自分なりのシナリオを考えた上でアウトプットを心掛けるようにしています。
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失敗の経験~印象深い出来事③~アルバイトで
第155稿です。
前回は社会人1年目のときの印象深い出来事をお話ししました。
ちょっと時間を遡って学生時代。
いまも時折思い出しては後悔をしている出来事があります。
以前に学生時代に飲食店でアルバイトをしていた話をしました。
最初のうちは、周囲が知らない人ばかりだったり、自分とは生き方も興味の世界も異なる人たちの世界だったので、全く馴染めませんでした。
マスターやほかのアルバイトの人と会話をするネタも思いつかず、いつも押し黙ってときどき愛想笑いを浮かべるのが関の山でした。
ところが2年、3年と経過するにつれて店の中の様子もわかってくるし新しい人も入ってくるし、でだんだん自分が古株になっていき、だんだん自分もそれなりに発言ができるようになってきました。
アルバイトはシフト制で、朝の部が11時から17時まで、夜の部が17時から23時まで、となっていました。
夜シフトが終わった後は、マスターを囲んでアルバイトの人たちで食事をして帰るというのが流れでした。
通常は昼だけ、とか夜だけ、とかのシフトで入るのですが、大学での研究の都合がついた平日や、休日などは昼と夜のシフトに入ったりすることもあり、これを「通し」と呼んでいました。
ある日、「通し」でシフトに入って働いた日の食事の席で。
歓談をしている途中に、
「あ~今日も『通し』だった。今日も一日無駄な時間を過ごしてしまった。」
と口走ってしまったのです。
その瞬間は特に自分の中で「口走ってしまった」という感覚もなかったし、罪悪感も何もありませんでした。
誰からも反応はありませんでした。
考えてみれば(考えなくても)当たり前です。
しかも「通し」でシフトに入るたびにその発言を繰り返していたのです。
そばにいるマスターは毎日11時から23時まで「通し」で働いていました。還暦を超えたいまでもやっていると思います。
そこで働くフリーターの人も、アルバイトの人も、「通し」で働く人は何人もいました。
そういう人のことも考えないで、「通し」で働いたら時間を無駄にする、などと発言をするとは。
慣れてきて、それなりに自分の立ち位置も確保しつつあって、何となく自分も少し成長したな、なんて思い違いをした挙句の発言でした。ようやく何でも言えるようになった、と勘違いしていたのです。
それがとんでもない発言だと自分で認識するまでにはしばらく時間がかかりました。
居場所がなかった自分が、居場所を確保しはじめた矢先の、慢心が生んだ傲慢の産物だったといまでも深く反省しています。
思い出すたびに穴があったら入りたいくらい恥ずかしい思いです。
どんな状況、立場でも常に謙虚でなくてはいけないな、と思います。
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(写真はイメージです)
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